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①私の原風景

松浦デザインコンサルティング代表の松浦です。私の自己紹介も兼ねて、思いつくままにブログを書いてみようと思います。デザイン、美術、WEB制作の事に限らず、心に残る思い出や、現在思うことなど気の向くままに書きますので「ときどきブログ」といたしました。

最初は、私の生まれ育った故郷の隠岐の島ことから。よろしかったらお付き合いください。


“隠岐の島”ってどこにあるか解りますか?西日本・中国地方の島根県に属しており、日本海にある隠岐諸島は4つの島から成り立っています。ゲゲゲの鬼太郎の作者・水木しげる先生の出身で有名になった鳥取県・境港からフェリーで約2時間半、高速船で約1時間ほどの、海上約80キロの日本海にある島です。自然の景観が素晴らしいので国立公園にも指定されています。


隠岐汽船 フェリーしらしま & 高速艇レインボー


歴史的には、京の都から天皇や公家・役人などが配流となった島でもあります。隠岐がそのような人達の遠流の地となったのは、都から遠く離れているというだけでなく、島での生活が比較的に問題が少ないということもあったようです。平安時代初期には小野篁(たかむら)が隠岐に島流しになっています。小野小町や小野道風(とうふう)の祖父になりますが、真直ぐな性格で反骨精神が旺盛だったようです。百人一首の11番目「わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人(あま)の釣舟」は隠岐の海士(あま)にいる時に読んだ歌と言われています。


鎌倉時代初期には後鳥羽上皇、鎌倉時代の後期には後醍醐天皇が、島流しになっています。共に文武に力のあった上皇であり天皇でしたから、北条氏ら武家勢力から朝廷側への主権奪還を試みるも破れ島流しとなりました。後醍醐天皇は後に隠岐の島を脱出し、建武の新政を成し遂げますが、南北朝の時代となり結局は500年以上の長きに渡り武家の時代が続いたわけです。ちなみに私の実家は、後醍醐天皇の御在所があった黒木御所(別府)から1キロほどにある小さな漁村にあります。


また古事記の日本列島の始まりとされる国生みの場面では、淡道之穂之狭別島(淡路島)、伊予之二名島(四国)に次いで隠岐之三子島(隠岐の島)と三番目に登場します。こうして大八島国(日本列島)が誕生したとされています。古事記の深い意味合いなどは全くわかりませんが、隠岐の島は古代から海路の拠点としてなのか、人々の営みはそれなりにあったようです。


隠岐の島は大きくは島前と島後に別れ、島前は三つの島からなっています。私の生まれた西の島は島前にあり、本州側は穏やかな良い漁港となっていますが、北西側(韓半島側)は国賀海岸といって下の写真にあるような、270m位の断崖絶壁がある雄大な景観が続いています。絶景と豊富な近海の漁場に恵まれ、観光業と漁業が主な産業ですが、私の子供の頃から比べると島民の人口は半減して3,000名ほどになっており、高齢化や過疎化が進み、今後どのようになっていくのか心配しています。


私は子供の頃、両親や祖父母が畑仕事をしている段々畑の中腹にある松の木に登り、そこから見える島の風景などを画用紙にスケッチするのが好きでした。また家に沢山有った大工道具と板切れなどを使って、木工などの工作をするのが一番好きな遊びでした。従兄弟たちと裏山に分け入って森の中に隠れ家を作ったり、浜に流れ着いた流木を集めてイカダを作って海で遊びました。それが私の物作りの原点であり、美しい隠岐の島の大自然の中でのんびりと育った“私の原風景”であります。


隠岐・西ノ島・国賀海岸(左:通天橋付近 右:摩天崖を見下ろす)






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