私は20歳後半の頃、東京都大田区の洗足池(東急池上線・洗足池下車)で画塾を開いておりました。30名ほどの小学生を対象とした絵画教室で、授業料も格安でしたので結構人気があり、ご近所の住民からは“お絵かきの先生”と呼ばれておりました。
かしこまったカリキュラムなどはなく、楽しく自由にやっておりました。私の目指すところは、部屋の中で上手な絵を描けるようにすることが指導目的ではありませんでした。子供たちに、先ず自然の美しさに素直に感動できる心をもってもらいたいと思ったのです。そして子供たち自身が創作や造形に関心を持ち、好きになること。関心をもって自由に描きだせば、大人が手取足取り教えることも無い、少しアドバイスをするだけだと…。
だから子供達が楽しみながら、自ら描いたり作ってみたいと思わせる環境を準備することに苦心した。何事も動機づけが大切だと思うのです。幸いすぐ近くには洗足池公園があり、小さな雑木林や、天然の池、四季折々の草木にも恵まれ、街中とは思えない自然があったので、子供達とよく出かけた。そこで宝探しをしたり、昆虫を採ったり、木の実や葉っぱを集めたり、自然に多く触れさせ観察をさせたりした。そしてそのことを導入テーマとしながら、お絵かきや工作に入っていった。半分遊びのようなものなので、子供達は喜んで画塾に通ってきてくれました。
児童絵画教室 、大田区洗足池湖畔 、勝海舟夫妻のお墓
洗足池という地名の由来は、鎌倉時代に日蓮聖人が身延山から降りてきて、常陸の国へ湯治に向かう途中にここで休憩し、足を洗ったことにより付けられた地名のようです。
しばらくして、洗足池湖畔に勝海舟夫妻のお墓があることを知り、より洗足池に親しみがわきました。明治維新の頃の人物には関心がありますが、中でも勝海舟と坂本竜馬、西郷隆盛に関心がいきますね。キャラクターは三者三様ですが、地位名誉にとらわれず大義に生き、自由に心の命ずるままに生きているところが好きです。(司馬遼太郎氏の影響が多分にあると思われますが…)
勝海舟は江戸幕府を代表するような立場にありながら、坂本龍馬らにも大きな影与え与え信頼を勝ち取っている。国際的な視野で日本の情勢を見ており、徳川幕府のみに捕らわれてはいなかった。
慶応4年、官軍を代表する西郷隆盛と幕府を代表する勝海舟は池上本門寺で会談し、江戸城の無血開城が実現したのである。その結果当時の江戸は戦火から免れたのである。のみならず西欧列強の餌食になる危機も免れたと言っても過言ではない。勝海舟はその池上本門寺に向かう際に洗足池を通りががり、その深山の趣の有る自然に感嘆したといわれる。勝海舟は維新後、風光明媚な洗足池の湖畔に洗足軒という別邸をたて移り住み、西郷隆盛もここ洗足池の勝邸を訪ねて日本の将来について歓談したと伝えられる。
勝海舟の墓所の傍には、西鄕南州留魂詩碑がありますが、これは西南の役で自決した西鄕の死を悼み、汚名回復のために勝海舟が自費で建てたものと言われています。
そんなわけで青春時代の一コマを過ごした洗足池も、懐かしい場所であります。
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