私は中学校を卒業すると隠岐の島から出て、県都の松江市にある県立松江北高等学校に通うようになりました。始めのうちは高校のすぐ近くに下宿をしましたが、あまりに近かった為か四畳半の部屋は友達のたまり場となり、いつも学校帰りに2、3人の友人が来ていました。中には泊まって行く者もいて、勉強にはあまり身が入らなかった。下宿屋にはひげをはやしてステテコはいて、タバコを吸ってるおっさんのような高校の先輩もおり、中学卒業と同時に島からでてきた私には、カルチャーショックというか刺激的な毎日でした。
成績も芳しくなくなってきたので、二年生になる頃に心機一転して、学校から少し離れた松江城の北側にある春日神社の傍にあった下宿屋に移りました。まかないつきで、夜の門限もある管理の厳しいおばさんのいる下宿屋でした。医学部などを目指して真面目に勉強する下宿生も多く、勉強するには良い環境になったのだが、何か気合いが入らなかったのです。
下校時には、友達とよく“うどんの平田屋”に寄り道し小腹を満たした。柔らかいきし麺風の手打ちうどんに刻み油揚が乗っており、安くて旨いので学生にも人気がありました。帰り道にある平田屋は、松江城近くの堀川のそばにあり、近くには松江を愛した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧居をはじめ武家屋敷風の家が軒を連ね、城下町らしいたたずまいを残していました。うどんを食べ終えると近くの貸本屋に寄り漫画本を2、3冊ほど借りて、読み終えたら漫画の返却に行きながら、自転車で友人の下宿を梯子して回ったものです。
宍道湖を眺望できる松江城の天守閣は現存天守として国宝に指定され、別名千鳥城とも呼ばれ親しまれている。そのころ小柳ルミ子の“私の城下町”が大ヒットしていたので、この曲を聞くとその頃の松江を思い出します。
宍道湖の夕日 、松江城(千鳥城) 、武家屋敷跡の街並み
通った高校はバンカラというか自由な校風でもあり、一升瓶をかついで国語担当の名物先生宅まで押しかけ酒を酌み交わす猛者もいた。私はというと、下宿先の隣にある春日神社の神主の息子がたまたま古文・漢文の先生だったので、訪ねていくといつも抹茶を点てて相手をしてくれた。その先生の影響かどうかはうろ覚えであるが、おふくろに縫ってもらった浴衣を着て、褌(ふんどし)を締め、時々抹茶を飲んで過ごした時期がありました。
確証の持てない未来に対して手探りしつつ、亀井勝一郎などの人生論を読んだり、親しい学友を訪ねて下宿先を回って語り合った。門限時間を破り、電信柱をよじ登って塀を乗り越えて部屋に帰ることもしばしばで、夜遅いので時々お巡りさんに呼び止められた。勉強に身が入らず、仕送りしてくれる両親には負債を感じつつ、多感で悩み多き時代であった。しかし青春時代を過ごした“水の都・松江”は、優しくて温かく、懐かしい第二の故郷である。
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